晴耕雨読のリタイアしてみました

2017年、53歳の時に完全リタイア生活をスタートしました。

学生時代の思い出

ハルトモさんが礼文島の写真を上げて下さっている。あ~懐かしい。大学1年の夏に何もわからないがとりあえずアタックザックに寝袋を詰めて上野から急行八甲田に乗り青函連絡船を乗り継いで北海道の旅に出た。時代背景としてはフォークソングカニ族世代のあと、自分はニューミュージックの新人類世代と呼ばれていてバックパッカーをはじめた。

ネットも携帯電話も無い時代、行ってみなきゃわからなかった。
上野を出た夜行列車は明け方青森に到着。青函連絡船で昼前に函館に渡り大沼を観光して洞爺湖へ。ユースホステルという貧乏旅の強い味方の存在をまだ知らず、北海道1泊目は駅員さんにお願いをして洞爺湖駅の待合室に泊まらせて頂いた。昭和のゆるいいい時代だった。

翌日は襟裳岬を周り帯広から池田を経由して池北線で北見へ。たしか途中の陸別では3時間停車なんて言うのもあるのんびりした列車だった記憶がある。池田着は20時過ぎ、駅員さんに宿泊をお願いするが断られ仕方がないので目の前にいた最終の網走行きに飛び乗り網走に着いたのは23時過ぎだったと思う。駅員さんにお願いをすると網走だからねえ、と脅されながらも鍵は締めるが待合室の宿泊を許してもらえた。ぎりセーフ。駅員さんは次の朝親切にも出身地の知床はいいところだよと列車まで来て教えてくれた。この時には行けなかったが、1年後に知床を訪れてのちにはまった場所の1つになった。

その後は旭川へ移動をして親せきの家に1泊させてもらい夜行で稚内へ。船で利尻島へ渡りレンタルサイクルで島を1周。風があってしんどかったのを覚えている。その日は夕方の便で礼文島へ渡り旅の途中で教えて貰った桃岩荘YHに宿泊。その晩に疲労からか発熱してしまい初めての礼文島は2泊したが観光は無しで、そのあと帰宅の途についた。

学生時代に結局10回北海道へ行った。冬場はスキー板を担いで富良野に入り浸ったり、多いときは3月5月7月と2カ月おきに行った時もあった。GWに板を担いで層雲峡へ行きスキーをしたこともあった。毎回貧乏旅行なのでワイド周遊券の使えない線路のない所はヒッチハイクでの移動だった。猿岩石より前のころである。周遊券の有効期限は20日間だったが、YHに泊まっていると短い期間で帰る人と券を交換してもらい30日以上北海道にいたこともあった。自分もキ〇〇〇YHにハマった口で、最後の方は礼文桃岩荘に1週間、知床の岩尾別YHに1週間みたいな局所マニアになっていた。

YHに泊まっていると学生以外で社会人だがアルバイトをして金がたまると旅に出ている人がいたりして憧れたが、結局はフツーに学校を卒業して社会人になってしまった。いつかは金が出来たらフラッと旅に出るフーテン暮らしをしてやろうと思っていたが、家族が出来て重しが出来るとその気持ちもいつか消えてしまった。

大学3年の春休みには34日間をかけてヨーロッパを1周した。超円高が進んでいた時で、前年の1ドル240円が旅に出た時は185円になっていた。話が長くなってきたのでこの辺りにしておくが、バイトと旅ばかりしていても大学を卒業させてもらえるいい時代だった。